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その日の私はいつも以上に足どりが軽かった。
本当なら学校なんて人がいっぱいで、怖くて。
だから私は顔を伏せて歩きながら、人に近づきすぎないようにしていた。
ぶつかった時、鬱陶しそうに顔を歪められると足がすくむからだ。


でも今日は違った。ちゃんと前を向いて歩けている。

“俺がいるだろ?”

あの慎吾さんの言葉を思い出すと、本当に近くにいる気がして、少しだけ頑張れる。
ぐっと足に力を入れて前を向けば青空が広がった。
ああ、こんなにも空は青かったんだ。


「両想いになったわけじゃないのに、幸せそうな顔しやがって」


ここ最近で起きたことを話せば準太にこう言われた。確かにそうだ。
今の私と慎吾さんの関係は不思議。
想いを伝えて断られたくせに、数日後には退院祝いと表して遊園地に行き、ツーショットまでとってしまった。
ひどく曖昧で、もどかしい関係。でも…。


「私、頑張れる、気がする」


だって本当に望みなんかなかったのだ。
窓から見ているしかなかっただけの、遠い存在だった人。
野球がうまくて、女子とも結構付き合ったりして、友達も多い人。
けれどそんな慎吾さんは私のことを真剣に考えてくれると言った。
それだけで幸せだった。慎吾さんと話す前の私ならそれだけで満足していた。


でも、話せるようになって、幸せを感じて、欲が出たのだ。
振り向いてほしい。隣を歩いていたい。
私はやっぱり、わがままなんだろうか。


「はかわったよ」

「え?」

「変わった。少しハッキリ喋れるようになったし、目線も上がった。
 すぐに諦めないで頑張れるようになった。」

「準、太……」

「ここまできたら最後まで付き合ってやるから。頑張れ」 

「うっ…いい人だ!」

「“いい男”、だろ?」

「それはちょっと考える」

「なんで!?」


ケラケラと笑うと面白くないという風に準太が顔を膨らませる。女子か。
いつかこんな風に、慎吾さんとも冗談を言い合える日が来るのだろうか。
きたらいいな、と思う。
私は腕をすっと上げると準太の柔らかい髪に触れて頭をなでた。
驚く準太も面白いな、なんて思いながらにっこりと笑う。


「ありがと、準太」

「……別に」

「あ、照れてる?」

「触んな」

「暴力反対ー」


ペチンと小さな音を立てて私の手を払った準太はそっぽを向いてしまった。
まったくなんだこの人は。普通の女子よりかわいいんじゃないの。
女子として負けた気がした私はため息をつくとわずかに赤くなった手の甲をさすって窓の外を見る。
青空の下、見えたグラウンドにちょっと鼻の奥がツンとした。


もう見えない。
朝でも昼でも夕方でも。
太陽と一緒になって、泥にまみれて必死に白球を追う彼の姿も。
仲間と競うかのようにあげるあの力強い大きな声も。
このグラウンドでは、見られない。
私はすっと目を閉じた。


「バッカ、おま、それどこに蹴ってんだよ!?」


その声が聞こえた瞬間私は情けなくも肩を揺らした。
聞こえてきたのは間違いなく今考えていた慎吾さんの物で、何事かと思えば窓の外、グラウンドに
ぞろぞろと同じ色のジャージを着た男子集団が入ってきていた。


「あれ、オレが蹴ったボールどこよ?」

「グラウンドの真ん中辺りだな」

「うわごめーん、慎吾ボール取ってきて」

「何でオレだよ!?蹴ったのお前だろ!」

「ほらオレボール蹴った瞬間靴脱げたからそれ取りにいかねぇと」

「二本の足でしっかり歩きながらよくもまぁそんな嘘が言えたもんだなオイ」


クラスメイトと大声で会話をしていた慎吾さんだっけど、結局言いくるめられたのか走ってボールを取りに行っていた。
「行くぞー」という掛け声の後慎吾さんがボールを力いっぱい蹴ると、それは弧を描いて空に上がる。
私のいる教室と同じ高さまでボールが上がった。


スローモーションで段々と高度を下げていくボールを見て私は見開いていた目を元に戻し、ほほ笑んだ。
さっきの鼻の奥に感じた違和感はもうなく、気持ちがいいくらい心が晴れていた。
ああ、そうだよな。
見られないわけじゃないんだよな。
なんでもうグラウンドで慎吾さんを見ることができないだなんて考えたんだろう。
やろうと思えば、野球だってできるんだ。
まるでそれを気付かせるかのように完璧なタイミングで現れた慎吾さんは、やっぱりキラキラ輝いて見えた。


「慎吾さんのクラス、体育みたいだな」


いつの間にか同じように窓の外を見ていた準太に対して軽く頷く。
慎吾さんの笑顔はここから見てもわかるぐらいに自然だった。
他の女子と居る時の姿が嘘みたい。
いや、女子の前でも普通に笑う慎吾さんは見たことがあるけど。
少なくとも、うん、なんというか、メイクをしてスカートを短くして髪を染めるような。
そんな女子の前でちゃんと笑った姿は、見たことがないかもしれない。


「あ」


思わず口から出た言葉に準太がこっちを見る。
笑顔で思いだした。


「そういや私、準太に聞きたいことがあったんだよね」

「ん?」

「いや、あのさ、」


遊園地に行った時から時々考えていた。


「慎吾さんって、今までに本気で―――」

「おーい、席つけー。チャイム鳴るぞー」


最後まで口に出す前に教室のドアが開いて先生が入ってきた。
教壇に教材をドンと置いた瞬間チャイムが鳴り響いたのを聞くと肩を落とす。
気遣う準太に苦笑をしながらまた今度聞くという事だけ伝えると号令に合わせて席を立った。
急いで聞くような話じゃないと思ったし、私自身もっと時間に余裕があるときに聞きたかった。


席に座ってゆっくりと教科書を出しながら外を見る。


(本人に聞けって、神様にでも言われてるのかな)


タイミングが合わなかったということは、そういう事なんだろう、と思う。
この話題は準太から聞くんじゃなく本人から直接聞くべきだと言われているような気がして。
小さく息を吐くとシャープペンをとりだしてくるっと一回転させた。

私が…私が聞きたかったことは…。


(慎吾さん。慎吾さんが本気で好きになった人っていますか?それって、どんな人ですか?)


消化不良の疑問が私のおなかの中でぐるぐるまわった。


*


「んー…アイス?でもお団子も捨てがたい…」


食堂でうんうんと唸ると私は相当怪しいだろう。
本当はアイスを買うつもりで食堂に来たのだけど、そんな私を待ち構えていたのは「新発売」と書かれて
堂々と宣伝をしてあるみたらし団子だ。
教室からはアイスを買う分しかお金を持ってきていないし…。
今日は暑いから、やっぱり予定通りアイスを買うべき?
でも女の子は期間限定だとか新発売という言葉に弱いものなのです。
つやつやとタレが輝くみたらし団子は3つ入りで100円と魅力的だ。いい具合に冷やしてあるみたいだし。


「ううー…でも最初はアイスを買うつもりだったしなぁ…。ん、決めた。
 あの、おばちゃん、アイスひとつ下さい」

「じゃぁオレはそのみたらし2パックちょーだい」

「ひっ!?」


やけに近くで声が聞こえて飛びのけば後ろにはしてやったり顔の慎吾さんがいた。


「や、やめてください!!いきなりすぎますし声が近すぎます!!」

「それにしたって“ひっ!?”はないって。慎吾さん傷つくわー」

「き、傷ついてない顔で言われたって説得力ありませんから!!」


身体を固くしながらも私はおばちゃんからアイスを受け取るとお金を渡す。
はぁ、何だか疲れたと俯いてため息を吐くと慎吾さんが「ん」という短い声を出すので顔をあげた。
すると目の前に差し出されているのはみたらしだんご。


「え?」

「あ?食いたかったんだろ?」

「え?え?ちょ、これって…」


まさか、くれるってことだろうか。


「だ、駄目です!!遊園地で散々お世話になったのにこんな!!」

「つかもう買っちまったし。オレ2パックも食えねぇしなぁ。
 がもらってくんねぇと1パック無駄にして捨てることになるしなぁ。
 あーあ、どうしようかなぁこのかわいそうな1パック」

「―――っ!!も、もらいます!!ありがたく頂きます!!!」

「そうそう。そうやって素直にもらっとけばいいんだよ」


ニヤッと笑う慎吾さんを見ると顔が熱くなって、私は俯き加減に団子を受け取った。
パックはひんやりとしていて気持ちがいい。


「あり、がとう…ございます」

「どーいたしまして。教室帰んの?なら途中まで一緒に行こうぜ」


ああもうまたそうやって!!
私が好きだってわかってるから余裕でそんな事いってくれちゃって!!
私がそんなの断るわけないの分かってるからもう疑問形ですらないよ!!
少し悔しく思いながらも、やっぱり断らなかった私は慎吾さんと一緒に歩く。
慎吾さんは河合先輩の事やらさっきの体育の事やらを話していて、私はいつものように相槌を打った。


「俺らのクラスの担任が事故って脚骨折してな。すげー動きづらそうだった」

「ええ!?悲惨、ですね」

「まぁうちのクラスは近い内に教育実習生が来るらしいし、丁度いいだろ」

「実習生!?初耳です。女の人ですか?男の人ですか?」

「男だって聞いたけど、複数名だしどうかねぇ。
 他のクラスにも行くみたいだし。のクラスにも行くかもよ?」

「うーん。怖い人じゃないといいですけどね」

「そんな怖い人は来ないと思うけどな。実習生だし」

「どんな判断基準ですか」


渡り廊下に出ると校内とは違うじわじわとした暑さが私たちを包んだ。
思わず立ち止まってグラウンドの方に目をやる。
空は相変わらずの青空だった。


「暑っ…」

「立ち止まってっと余計に暑いぞ。つか、さっきアイス買っただろ。
 早くしねぇとアイス溶けるぞ」

「あ、そうでした」


汗をかきだしたアイスのカップを持つと数歩先にいた慎吾さんに歩み寄る。


あ、そうだ。


「そういえば私、慎吾さんに聞きたいことがあるんですけど」

「んぁ、珍しいな。何?」

「いえ、あの…」

「?」


どうしよう、いざとなったら聞きづらいな。
というかこんなこと聞いてどうしようっていうんだ私。
わからない。けど聞いてみたい。


立ち止まったままの私たちを熱気が包む。
手がじっとりと汗をかいていた。
こういうのは重く聞かない方がいいかもしれない。軽く。軽くだ。
あくまでソフトに、何でもないという風を装って…よし、いける。


私は必死ににっこりと笑うと慎吾さんの顔を見た。
あくまで、ソフトに。


「し、慎吾さんって、今まで、その、本気で好きになった人とかって、居るのかなーって…っ!」


息が、詰まった。


本当に軽い気持ちで聞いたんです。
ちょっとした消化不良をどうにかしてくて、慎吾さんならいつものように笑って返してくれると思って。


でも私が見たのは、笑うのでも驚きでも、ましてや怒るでも悲しむでもない。
ただの無表情。
冷たい拒絶の色。
自分の内側に触れさせまいという高く高く築き上げた壁。
鉄でできた、この夏のじわりとした暑さに似合わない、ひどく冷たい、壁。


一瞬だった。
そんな表情は一瞬で笑顔に、そう、あの女子に向けるような同じ質の、嘘の笑顔になった。
でも、一瞬でも確かに見えた、慎吾さんのそれ。
額にはじわりと汗をかくほどの暑さなのに、冷たい空気が私をぎゅっと包んだ。


「いやー、何でそんなこと聞くんだよ慎吾さん恥ずかしいだろ」

「あ、はは…そう、ですよ、ね。恥ずかしいですよ、ね」

「おう、恥ずかしいなぁ」


恥ずかしいと言っている割には声は平坦で。
私は泣きそうになるのを感じた。
近づいたと思っていた。慎吾さんとの距離が少しでも縮まったのだと思っていた。
いや実際は近づいていたのかもしれない。
でも私が今ここでぶつけた疑問は、確実に縮まっていた距離を遠ざけた。
そんなことが分かるくらい、ここは何もかもが冷たかった。


「あ、の…。私ちょっと、用事思い出しちゃったんで…。先に、帰っててもらえませんか?」

「…ん、分かった。こけんなよ」

「や、やだな。こけませんよ」


上手く笑えているだろうか。
躊躇なく私に背中を向けて歩き出す慎吾さん。
だんだんと広がっていく自分との距離が、かなりリアルなものとして目にうった。
呆然と慎吾さんの背中を見送った私に夏の暑さが戻ってきたのは、数十秒後。
じっとりと汗が体に浮かんだのを感じた瞬間、私は「あ」と言うとだらりとおろしている自分の手を見た。


「アイス…とけちゃった」


どこかで蝉が鳴いている。
慎吾さんの背中はもう見えなくなっていた。
私はその場にうずくまると髪の毛をくしゃりとつかんだ。


「寒い」


消化不良の疑問が、また私のおなかの中でぐるぐるまわった。



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