あらあらそれは 一体何色だったかしら
べったりと色を塗っていく。 靴を脱いで紺のソックスさえ邪魔でそれさえも脱ぎ捨てた素足はもう色で染まっていた。 描いていたのではない。ただ一心不乱に塗っていた。 B0判の大きな白の模造紙がどんどん色に犯されていって、白い部分が少なくなっていく様を どこか他人事のように見ている自分がいるのに気付きながら、それでも塗らずにはいられなかった。 冬も手前のこの美術室は1階の隅にありやけに寒い。 こんな奥まで来る人間は少なく、また部員も少なくこの美術室には今は私しかいなくて閑散としていた。 その静けさも相まってか空気の冷たさは増し、寒さはより一層裸足の私を襲い、足の指の爪が気づけば紫色になっていた。 でもその紫の爪すらも色に犯されていく。 自分が飲みこまれるような錯覚に、人知れずふっと短く息を吐いた。 「寒っ…何でストーブつけねぇの」 ガラガラと唐突に教室のドアが開いた。 そう言いながら部員でもないのに遠慮もなく教室に入り、これまた遠慮なくストーブをつけた男の人。 1年くらい前からなぜかこの教室によく来る男の人。 自分の部活動を引退してからは暇さえあればここにきてよく入り浸って一方的に話しかけてくるよく分からない男の人。 その人が慣れたようにストーブをつけて、机に置いていた私の真っ赤なマフラーをまくとこちらに来た。 ストーブを近くまで引っ張ってきて、机の上に腰掛けると横から私を見てくる。 「寒くねぇの?」 「別に」 「いや、でも肌真っ白だし…大丈夫か」 肌が白いのは生まれつきだ。もともと外に出ることも少ない引きこもりだから日に焼けることもない。 私は男の人を見ないで紙を塗っていた。それ以外に方法を知らなかった。 覗き込むように私の顔を見た男の人がぎょっとしたのが空気で分かったけれど気づかないふりをした。 数秒してから男の人は言い淀むようにもう一度私に大丈夫かと聞いてくる。 「顔、真っ青だぞ」 うるさいうるさい知るもんか。 私の顔が青かろうと、私の肌が白かろうと、私の爪の色が紫だろうと貴方には関係がないじゃないか。 無言を貫いて色をべたべた塗っていると、男の人はようやく私が塗っているものに気付いたようだった。 そうしてさっきよりも目を見開くと小さく「何で…」とこぼした。 その言葉は本当に気づいたら口からこぼれていたような小さな声であったから、うっかりすると聞き逃してしまいそうで。 本人でさえ自分がこぼした言葉に気づいていたかどうかも怪しい。 しかしいつの間にか小さな男の人の声すらも拾うように発達した私のこの白い耳がその言葉を逃がさない。 それでも私はその問いに答えることはしなかった。代わりに鼻の奥が一瞬だけツンとした。 「それ、俺の嫌いな色だろ」 塗っていただけなのに色が混じって、気づけば水面のようなものが模造紙いっぱいに広がっていた。 その模造紙の上に立てばまるで水面に立っているかのように錯覚さえしそうで。 それは同時に足元が安定せず、そのまま水中の深く暗い場所に沈んでしまうのではないかと思わせた。 ぼちゃん。と音をたてて。ごぼごぼ。と空気を吐きだして肺をこの色でいっぱいにしてやりたい。 水面のようだ。でも確かにこれはこの男の人が嫌いだと言っていた色だ。 この1年間ほどはこの色を使って絵なんて描かなかった。意識的に避けていた。 だって貴方が嫌いだというから。 「何でここに来るの」 今更のような私の問いかけに答えようとした男の人の言葉をさえぎる。「もうここに来る必要はないじゃない」と。 だって貴方には可愛い可愛い彼女ができたじゃない、という言葉は残念ながら声にならなかった。 まるで喉に何かが詰まって圧迫しているように、その言葉を言おうとした瞬間息がつまった。 怖くて苦くて、また鼻の奥がツンとしたけれど涙が流れることはない。流さない。 だって私が今、世界中のどんな涙より美しいものを流したとしても、足元の水面はちっとも揺らぎはしないのでしょう。 「…俺、なんかした?」 不安そうに眉を寄せる男の人をチラリと見て、模造紙に視線を戻すと最後にとびきり濃い男の人の嫌いな色を入れた。 ストーブがついてじわじわ温まっていく部屋が怖くて、私は筆を持って冷たい床をぺたぺたと歩きながら水道まで行く。 蛇口をひねって筆と自分の手を洗った。足はお風呂で洗えばいい。 「その絵ね」 「は?」 「その絵あげる。いらないから…捨てといて」 筆を洗って手を洗って、道具を全部片付けたら紺のソックスをはいて靴に足をつっこんだ。 男の人から奪うように真っ赤なマフラーを取り上げると自分にまく。 マフラーを取り上げる為に近づいた際、ストーブのせいかひどく温かかった。その温かさにゾッとした。 早くこの温かさから離れたくて、鞄を肩にかけた。 すると男の人が私の手をつかんできたので思わず振り返ってしまった。 やっぱり眉間にしわを寄せて不安そうな表情をしたその人は、私の手の冷たさに驚いたようだった。 私も男の人の手の温かさに驚いていた。 「なんかあったのか?」 「……私ね、手が温かい人が心が冷たいとか、嘘だと思うの」 「何、言って…」 「だって貴方の手はちゃんと温かいじゃない島崎慎吾」 目を見開く。そうしてその後真剣な顔で「矛盾だ」と男の人は言った。 「さんの手は冷てぇよ」 「その通り」 クスリと笑うと私は目を伏せた。 自然な動作で自分の手を引いて、男の人に触られて温かくなっていたその場所をもう片方の自分の手で覆った。 ぬくもりは、すぐに消えた。 私はそのまま教室の出口に向かうとドアを開ける。 廊下のひんやりとした空気が、暖まっていた教室になだれこんできた。 その時なぜかまた鼻の奥がツンとしたけれど、それに気づかないふりをして目を閉じる。 一呼吸置くと振り返り、私は男の人に向かってこの1年間で一番綺麗に笑ってみせた。 「それじゃぁ、さようなら」 なかぬが身を焦がす